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投稿日時:2010年03月30日 19:29
ビズデザイン株式会社の友田景です。
近年、“家族”が過剰にフォーカスされていて、“過族”になってしまっている気がする。過族になると、渦のように中心に力が集中して、社会から引きこもりを起こしてしまい、“渦族”になってしまう。そして“渦族”はいずれ社会にとって、禍を起こす“禍族”になってしまう気がする。
例えば、最近のニュース番組を見ていて、とっても気になることがある。それは、キャスターが大のスポーツ選手のことを「●●ちゃん」、「●●くん」と平気で読み上げ、呼ぶことだ。もうみなさんもおわかりだと思う。バンクーバーオリンピックでは、浅田真央選手のことを「真央ちゃん」、ゴルフでは、石川遼選手のことを「遼くん」と連呼している。まるで、近所の子どものことを話す茶の間の会話のように。そこにはスポーツ選手に対する尊敬など微塵も感じられない。公共の電波を使って、家族の会話をしているようだ。彼らはもはや日本中の娘と息子なのかも知れない。
また、普段から僕が愛読している日経ビジネスオンラインに興味深いコラムがあった。時間がある方は是非、こちらをご一読頂きたい。コラムの著者とは世代も違うが、その内容には激しく同意できる。コラムの内容は、車の主流がミニバンになり、そしてそのCMについての考察だ。こども店長を代表されるように本当に車のCMは家族ものばかりになった。これだけ時代そして、生活スタイルが多様化しているのにも関わらず、ターゲットは家族(ファミリー)ばかりである。そういう私もミニバンに乗っているが・・・。
民主党の『子ども手当』をはじめとする様々な政策にもどうも同じようなにおいがプンプンしてならない。社会全体が家族化していて、線引きのない甘いゆるい社会へと流れてはいないか。家族は社会の最小単位と社会学的にも考えられているが、家族が過剰に重んじられるようになるとそれは社会とは相反するものになってしまうのではないか。『子ども手当』や『こども店長』の減税と補助金、そして、マスコミがこぞって『真央ちゃん』と呼ぶことに小市民的な優しさを感じられずにはいない。そのフォーカスの仕方は、世界を狭めるものであり、社会的な優しさとは相反するものだと考える。社会が進歩し、多様化する中で、家族マーケティングは、その社会に対応できるだけの個人を育てられるとは思わない。ビジネスにもマスコミにもそして政治にも家族を超える社会的な視点からのマーケティング(政策)が必要ではないか。
そういう私も小さい子どもが二人いる身としては、子ども手当を拒否するほどの甲斐性も気概もないのだが・・・。
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