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投稿日時:2008年12月17日 09:56
「容疑者Xの献身」を読んだ。先日も書いたが、東野圭吾の「手紙」が意外にもおもしろかったので、ミーハー心を躍らせながら横浜駅の丸善で14日の夜に購入した。翌日(15日)には読了した。これはおもしろい。これまで読んだ東野ガリレオシリーズは種明かしが陳腐だった。それは科学的証明をするというプロセスに力点を置いた種明かしだったからだろう。ところが、「容疑者Xの献身」はそうではなかった。同じガリレオ作品とはまったく違うアプローチで描かれている。その違いは主役級登場人物であるガリレオ自身の人物描写にまで現れている。公開中の映画がどこまで原作に対して忠実であるのかどうかは知らないが、ここで詳細を書くのは無粋だと思うのでやめておく。・・・が、「容疑者Xの献身」はおすすめできる小説である。松本清張の「砂の器」や「点と線」から“時代的背景”の要素を取り除いてしまえば、松本作品にも十分に匹敵するおもしろさがあった。
投稿日時:2008年12月17日 09:46
「価値観の多様化」「モノの豊かさから心の豊かさへ」が喧伝されていたバブル期は、実は「均一性」によって支えられていたという見方を昨日示した。しかも、極度の「均一性」に支えられていたと、ぼくは思っている。たしかに、住宅の選び方、暮らしぶり、服装、日用品、食品・・・と、消費アイテムのバリエーションは大いに“多様化”していた。「こたつでみかん」だけが正月ではない。ハワイで正月を迎えよう!「赤ちょうちんで帰りに一杯」は旧世代のもの。カフェバーで軽くやってディスコにくりだそう!というように。円高も手伝って輸入品アイテムが増えた。こうした現象を振り返ると、「少品種大量生産から多品種少量生産」へと消費市場における企業戦略のシフトがあったということは間違いない。しかし、そこにはかつてないほどの「均一性」が確立されつつあった。それは「貨幣と市場が第一」という価値観である。一見多様化したかに見えたバブル期の様相だが、よくよく観てみると、商品カテゴリーが細分化され、消費市場が細かくセグメント化されるなか、空前の“好景気”でダブついた貨幣をもてあました消費者が、それぞれのお好みの商品を買いあさっていたにすぎない。たしかに、商品選択の自由度が増した、あるいは消費アイテムが多様化したということはいえよう。しかし、貨幣経済がはじまって以来、これほどまでに貨幣そのもの、市場そのものが尊重された時代があっただろうか。ぼくは経済学者ではないのでそのあたりはよくわからないが、おそらく希有な時代だったに違いない。「多品種少量生産」であっても、「大量生産・大量廃棄」であることには何の代わりもない。本来、モノとモノの交換手段でしかないはずの貨幣がおそろしく価値をもつものであると錯覚された時代。その時代に多様化していたのは、人々の価値観でもなんでもなく、市場にあふれるモノの種類だったのだということを総括しておく必要がある。バブル期に均一性をきわめてしまい、いまだにその残影が色濃く残っている。それが金融危機・不景気のダブルショックをもたらした。そして、いま必要とされている「多様性」とは、まさしく「貨幣と市場が第一」という価値観」そのものを多様化すべきという意味をもつ。地域通貨、地方主権、LLP(有限責任事業組合)、LLC(合同会社)、非営利株式会社、産直流通、地産地消・・・。これらはすべて、「貨幣と市場が第一」という価値観」に挑戦する思想(哲学)の具現化策である。多様であってはじめて危機管理ができる。多様であってはじめて誰もが夢を描ける。多様であってはじめて・・・というのが「多様性」の前提であろう。(不定期に続く。)
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